岐阜市の遺跡一覧
鷺山蝉遺跡
場所 |
岐阜市鷺山字東蝉ほか | ||
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主な時代遺跡の種類出土品 |
縄文時代 | 墓域か? |
土器集積 深鉢(晩期稲荷山式・突帯文土器) |
弥生時代 |
集落か |
溝・流路 弥生土器(遠賀川系土器・条痕文土器) |
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古墳時代 |
集落 |
竪穴建物・溝など 古式土師器・土師器(北野系甕など)・須恵器 |
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古代 | 集落 |
竪穴建物・溝・ピットなど |
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中世 |
集落 |
溝など 中国産磁器・山茶碗・土師器皿・渡来銭など |
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戦国時代 | 居館 |
堀・土塁・土橋・石組遺構・土師器皿集積遺構・掘立柱建物など 陶器(古瀬戸・大窯)・土師器皿・木製品(将棋駒・漆器椀・折敷など)・渡来銭など |
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報告書 |
『(財)岐阜市教育文化賑興事業団報告書第15集 鷺山蝉・鷺山仙道遺跡―岐阜市鷺山第二土地区画整理事業に伴う緊急発掘調査―』 『平成9・10年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか |
詳細
鷺山蝉遺跡は長良川右岸の扇状地上に展開する、縄文時代から戦国時代にかけて営まれた遺跡です。
遺跡の中央南側で平成9年度に実施した試掘調査では、平安時代の竪穴建物を検出し、埋土中より緑釉陶器・二彩陶器が見つかりました。これらは古代の役所関連でしか見つからないことから、当遺跡が古代の美濃国方県郡の中心地であった可能性を示唆する遺物として注目されました。
その後、平成15年度より区画整理事業に伴い発掘調査を実施した結果、縄文時代から戦国時代の遺構・遺物が見つかり、特に戦国時代の守護所「福光」と同時期の遺構・遺物を数多く確認しました。
調査範囲西側(A区)では、一辺約40m程度の、周囲を溝で区画した戦国時代の屋敷地が見つかり、屋敷地内ではこの他に土師器皿集積や掘立柱建物などが検出され、溝内からは将棋駒「王将」が見つかりました。
また調査範囲中央(B区)では戦国時代の居館跡「蝉土手城館跡」の堀と土塁を検出しました。堀は幅約7m以上もあり、堀の北辺と南辺の距離から、一辺が約120mの規模を区画する大規模な居館跡であることが分かりました。この他、調査範囲東側(F区)では戦国時代の溝内に大量に廃棄された土師器皿集積が見つかっており、戦国時代の守護所「福光」における土地利用が徐々に明らかとなりました。
このほか、戦国時代以外の特筆するべき成果として、「巡方(じゅんぽう)」の出土が挙げられます。調査範囲の東側(F区)のピット内より見つかったもので、平安時代の役人が身に着けていた、革帯(ベルトのようなもの)の帯金具の一部です。金属製であることからも、位の高い役人がいたことは間違いなく、当遺跡が古代方県郡の中心地であった可能性がより高まりました。
屋敷地の出土遺物(A区・戦国時代) 蝉土手城館跡の出土遺物(B区・戦国時代)
将棋駒「王将」(A区・戦国時代) 帯金具「巡方」(F区・平安時代)
加納城下町遺跡
場所 |
岐阜市加納沓井町ほか | ||
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主な時代遺跡の種類出土品 |
古墳時代 | 集落? | 須恵器など |
鎌倉時代 | 集落? |
土坑など 山茶碗など |
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江戸時代 | 城下町・宿場町 |
盛土など 瀬戸美濃産陶器・土師器皿・貝殻など |
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報告書 |
『平成29年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』 『平成30年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』 『平成31/令和元年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』 『令和2年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか |
詳細
旧加納町役場跡出土貝殻
遺跡西側出土須恵器・山茶碗
岩田東A遺跡
場所
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岐阜市岩田西1丁目ほか
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主な時代 遺跡の種類 出土品 |
弥生時代
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集落・
墓域
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竪穴建物跡・方形周溝墓
弥生土器(中期朝日式・貝田町式・高蔵式・条痕文系・沈線文系、後期欠山式)・石器(石庖丁・砥石など)
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古墳時代
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集落・墓域
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前方後方形周溝墓・竪穴建物跡・溝など
土師器(古式土師器・二重口縁壺など)・須恵器
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古代
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集落
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竪穴建物跡・溝など
土師器(濃尾型甕など)・須恵器・灰釉陶器 |
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中世
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集落
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溝など
山茶碗・土師器皿など
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報告書
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『(財)岐阜市教育文化賑興事業団報告書第20集 岩田東A・岩田西遺跡 ―市道ミイソ川原畑線道路改良工事に伴う緊急発掘調査―』 『平成19年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』 『平成21・22年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか |
詳細
岩田東A遺跡は、岐阜市の東側、長良川左岸に展開する、標高約32mの低位段丘面上に立地している、弥生時代から中世にかけて営まれた遺跡です。昭和2年に弥生時代中期から後期の弥生土器と石庖丁が採集されており、『岐阜市史』では「岩田遺跡」として報告されている遺跡です。
平成20年度より市道ミイソ川原畑線拡幅に伴い発掘調査を実施した結果、弥生時代から中世までの遺物が出土し、主に弥生時代中期から古墳時代初め頃にかけての遺構が多く見つかりました。
調査範囲の東側では、弥生時代中期から後期頃の住居(竪穴建物跡)が見つかっており、集落が営まれていたようです。弥生土器のほか、住居の中や周辺から、当時の人が用いた石庖丁や砥石などの石器が出土しています。
その後、調査範囲の西側では、周囲に溝をめぐらせる四角いお墓、方形周溝墓とよばれるお墓が複数作られるようになります。弥生時代末から古墳時代初め頃には、長良川をのぞむ高まり(段丘上)に墓域が広がっていることが明らかとなりました。方形周溝墓の溝のなかには、墓に供えられていた土器(供献土器)が多く出土したほか、壺2点が組み合わされた状態で見つかりました。亡くなった人を埋葬するため、利用した可能性が考えられます(土器棺)。
このほか、前方後方形周溝墓とよばれる、長さ20m以上の大型のお墓も見つかりました。古墳時代初め頃のお墓で、装飾の多い特別な壺(二重口縁壺)が供えられており、この地域でもかなりの有力者が埋葬された可能性があります。
古墳時代後期以降になると、再び住居が作られ始め、墓域から集落へと変わっていったようです。
上尻毛高田遺跡
場所
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岐阜市上尻毛八幡ほか | ||
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主な時代
遺跡の種類
出土品
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古墳時代~中世
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集落・官衙(かんが)関連 |
竪穴建物跡・掘立柱建物跡・溝・土坑など
土師器・須恵器・灰釉陶器など
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報告書
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『上尻毛高田遺跡-都市計画道路西部縦貫道線道路改良工事に伴う緊急発掘調査-』 『平成20・21年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』 『平成22・23年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか |
詳細
上尻毛高田遺跡は、岐阜市の西側、根尾川が形成した扇状地上に立地している古墳時代前期から中世にかけて営まれた集落遺跡です。遺跡の南側には古代の道路(官道)である東山道が東西に延びていたとされます。
上尻毛高田遺跡がある上尻毛地区は、平成2~7年にかけて行われた岐阜市遺跡詳細分布調査によって古代から中世にかけての遺跡が多数あることが確認されており、平成22・23年度に都市計画道路西部縦貫道線道路改良工事に伴い、当遺跡内で発掘調査が実施されました。
発掘調査の結果、平安時代の建物跡(掘立建物跡・総柱建物跡)を10棟確認しています。建物跡の周りから土器(灰釉陶器)が大量に出土したほか、同時期の畿内の土器(黒色土器)が出土していることから、古代には役所(官衙)に関連する施設があったものと推定されています。
また古代以前では、古墳時代前期頃の住居跡(竪穴建物跡)が確認され、古墳時代からこの地に住居を構え、集落を形成していたことが分かっています。
黒野城下町遺跡・黒野城跡
場所
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岐阜市黒野、岐阜市黒野388 黒野城跡公園内(黒野城跡)
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主な時代
遺跡の種類
出土品
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戦国時代~江戸時代
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城館・城下町 |
土塁・石垣・集石遺構
瓦・陶器など
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報告書
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『平成28年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』
『平成26年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか
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詳細
下西郷一本松遺跡
場所
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岐阜市小西郷1丁目ほか | ||
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主な時代
遺跡の種類
出土品
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弥生時代~
中世
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集落 |
竪穴建物・溝・土坑・ピットなど
弥生土器・土師器・須恵器など
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報告書
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『下西郷一本松遺跡-西郷1号線街路事業に伴う緊急発掘調査-』
『平成28年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか
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詳細
下西郷一本松遺跡
場所
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岐阜市小西郷1丁目ほか | ||
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主な時代
遺跡の種類
出土品
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弥生時代~
中世
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集落 |
竪穴建物・溝・土坑・ピットなど
弥生土器・土師器・須恵器など
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報告書
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『下西郷一本松遺跡-西郷1号線街路事業に伴う緊急発掘調査-』
『平成28年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか
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詳細
加納城跡
場所 |
岐阜市加納 | ||
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主な時代 |
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平安時代 | 集落? | 灰釉陶器など | |
鎌倉時代 | 集落? |
山茶碗など
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戦国時代 | 城館 |
土塁・礎石など
瀬戸美濃産陶器・かわらけなど
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江戸時代 | 城郭 |
石垣・堀障子・礎石など
瀬戸美濃産陶器・肥前産磁器・
漆器・瓦など
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報告書 |
『史跡加納城跡』
『平成12・14・15年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』
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詳細
天下分け目の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、大坂城の豊臣氏に対するため、合戦直後、加納に城を築きます。その場所は戦国時代の城館の跡で、東・南は荒田川、北は清水川に囲まれた場所でした。さらに西には長刀堀(なぎなたぼり)を掘り、四方を川と堀で囲まれた、水に浮かぶ城を造り上げました。
初代城主には長女亀姫(かめひめ)の婿である奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じ、10万石を与えました。その後奥平氏3代、大久保氏1代、松平(戸田)氏3代、安藤氏3代、永井氏6代といずれも譜代(ふだい)大名が城主となり、明治を迎えます。明治5年から6年にかけて、城内の建物は取り壊されてしまい、その後堀も埋められてしまいましたが、本丸周辺や二の丸の北側など石垣が残り、当時の姿を偲ぶことができます。
本丸は東に出っ張りを持つ、凸の字形をしています。これは出枡形(でますがた)という防御施設を、本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴で、加納城はその初現にあたることから、「加納城型」ともいわれています。
昭和58年本丸が国の史跡に指定されて以降、発掘調査を実施しています。平成11年度の発掘では、南門の土塁(どるい)の跡が見つかると同時に、江戸時代の加納城の下に戦国時代の城館の土塁が見つかりました。言い伝えの裏付けができた大発見といえます。平成16・17年度には、大手口北の堀から堀障子(ほりしょうじ)が見つかりました。今まで全く想定されていなかったもので、新たな事実が明らかとなっています。平成19年度には、大手口の石垣や櫓門(やぐらもん)の柱を支えた礎石(そせき)が発掘されました。石垣はこの部分だけ綺麗に平らに割った石を使っており、本丸正門の美観を意識したものと見られます。
現在の二の丸は北側を除き、石垣が埋められてしまっているので正確な範囲が分からなくなっています。発掘調査で、東側の石垣や厩曲輪(うまやぐるわ)との通路の石垣が見つかり、範囲が明らかになっています。また二の丸には城主が暮らす御殿がありましたが、平成12年度の発掘調査で、その一部と見られる礎石が発見されました。
加納城跡を南から望む | 戦国時代の土塁 |
本丸大手北堀の堀障子 | 本丸大手櫓門の礎石 |
二の丸御殿の礎石 |