岐阜市の遺跡
黒野城下町遺跡・黒野城跡
場所
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岐阜市黒野、岐阜市黒野388 黒野城跡公園内(黒野城跡)
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主な時代
遺跡の種類
出土品
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戦国時代~江戸時代
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城館・城下町 |
土塁・石垣・集石遺構
瓦・陶器など
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報告書
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『平成28年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』
『平成26年度岐阜市市内遺跡発掘調査報告書』ほか
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詳細
黒野城下町遺跡・黒野城跡は黒野台地南部に位置しており、加藤貞泰(かとうさだやす)により築城された城下町と城郭(じょうかく)です。貞泰の父、加藤光泰(みつやす)は、豊臣秀吉に仕えて戦功を立て美濃国大垣4万石、後に甲斐国24万石を領した有力な家臣でしたが、文禄2年(1593)朝鮮の役で急死し、貞泰が家督を継ぎました。文禄3年(1594)、貞泰は美濃国黒野4万石へ転封となり、黒野城下町の整備を行ったと言われています。慶長5年(1600)関ケ原の戦いで貞泰は東軍(徳川方)に属し、慶長15年(1610)には2万石を加増され伯耆国(ほうきのくに)米子(よなご)6万石の城主となりました。貞泰の転封後、黒野は加納藩領となり、黒野城は廃城となりました。
黒野城とその城下町が存続していたのはわずか16年ですが、この間に検地の実施や楽市制度の導入、尉殿堤(じょうどのづつみ)などの治水事業の実施などが後世に伝わっています。
黒野城下町では現在のところ、城下町の繁栄を明らかにするような遺構(いこう)や遺物は非常に少ないですが、黒野城跡は平成25~28年度にかけて本丸土塁(どるい)や虎口(こぐち)周辺が発掘調査されています。城郭の出入り口のことを虎口(こぐち)と呼びますが、江戸時代に描かれた絵図では、黒野城西側に枡形(ますがた)の虎口が存在していますが、発掘調査では、現在では失われてしまったと思われていた虎口の土塁とその石垣が発見されました。この虎口の土塁正面には2段以上の石垣が存在していたことや虎口周辺を丹念に整地した土層の状況が明らかになりました。また、虎口周辺から瓦がたくさん出土したことから、黒野城の虎口には門のような建物があったと推測されます。ほかにも、菊丸瓦(きくまるがわら)という寺院や城郭の屋根の棟(むね)を飾るための瓦が1点出土していることも注目されます。現在、黒野城と同じ時代に築城された城郭から出土する菊丸瓦は、主に京都府や大阪府、奈良県にある豊臣秀吉ゆかりの城郭に限られているため、貞泰と秀吉の深い関係性や菊丸瓦が当時の政治の中心地から地方へ拡散していく過程を明らかにする重要な遺物です。
黒野城跡は昭和30年12月22日市史跡として指定された後、昭和50年代には削平されていた南側の本丸土塁が復元され、現在は城址(しろあと)公園として整備されています。
黒野城跡本丸 虎口土塁と石垣
発掘調査風景 出土菊丸瓦