❿「所長つうしん」・・・ 私たちは誰でも、つねに、すでに人権問題の当事者
所長つうしん 2017年9月 1日
私たちは誰でも、つねに、すでに人権問題の当事者
人はその『瞬間』に…
人はなぜか「自分にとって“下の者”」を作ろうとする『瞬間』があります。
白人は、有色人種を見下すことがあります。
男性は、女性を見下すことがあります。
ともすると、若者は、高齢者を見下すことがあります。
ともすると、富める者は、貧しい者を見下すことがあります。
ともすると、学歴のある者は、学歴のない者を見下すことがあります。
さらに、子どものいる者は、子どものいない者を可哀そうだといいます。
ついには、キャリアを持つ女性は、専業主婦を軽くみる気配すらあります。
不思議でなりません、同じ人間同士なのに…。
人権の大切な視点は、「相手がどう受け止めているのか」ではないでしょうか。
岐阜市人権啓発センターの資料では…、相手の立場に立てない理由は2つあり、1つは、相手が置かれている状況が、社会的にどのような位置であるのかという知識が十分でなかったり、偏見などによる間違った知識を持っていたりする「正しい理解」の不十分さ。もう1つは相手の立場になって考える・考えようとする経験・想像力の不十分さです、と述べています。
もし人権という言葉が難しいのならば、違和感を持ったその『瞬間』に、真っすぐ向き合ってみることが大切ではないかと思います。
「今、ここ」に息づいている「せめぎ合い」や「抗い」が、あちらこちらにあります。私は、できる限り『自分をあけておくこと』が必要ではないかといつも考えています。日常を“異なるもの”としてみるまなざし、“あたりまえ”を疑い、見直すところから始まるのではないかと考えます。ちょっとした違和感から、様々な社会問題を自分の中に取り込み覚醒させることができるのです。
差別そして平等…
真の意味での「平等」とは何なのか、についてもよく考えさせられます。
「平等」を広辞苑で引くと、「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」とあります。
人は何かにつけて“差別”をつけようとします。差別意識は、人々の心をバラバラにします。差別から融和は決して生まれません。そして他者への愛や思いやりも生まれません。差別から生まれるのは不当な扱いだけなのです。
それでは、「すべてのものが一様で等しいこと」があり得るとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。
ふと、あの有名な「平等院」を思い出し、名前の由来を調べてみました。「仏の救済が平等ということを意味し、仏の平等を光で顕します。平等院は光のお寺なのです」とありました。厳しい身分制社会の中で、貧困と差別に喘ぐ庶民に生きる力を与えるものとして、「仏の救済が平等」という宗教思想が生まれたようです。
では、日本国憲法ではどうなのでしょうか。次のように記載されています。
「第十四条 すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。……」とあります。
現実社会において「平等」が意味するものは、精神面における「仏の救済」から法律上の「同等の権利」まで、種々ありそうだということが分ってきました。
とするならば、お寺や裁判所ではなく、日常生活の人間関係において「平等」が意味するものは何なのでしょうか。
それは、それぞれが個性と異なる価値観を持ち、一様ではない人と人が平等であるということ、つまり「それぞれの違いを認め合うこと」ではないでしょうか。
「平等」とは「違いを認め合うこと」であると、私は信じてやみません。
自分と常に向き合う…
私自身が、日常生活の中で、その『瞬間』と常に闘わなければなりません。
差別される側に立つこともありますが、逆に自分が差別意識と闘わなければならない『瞬間』もあります。これがきっと一番厳しい闘いになるのかもしれません。
いま=ここから始めていかなければなりません。
私たちは誰でも、つねに、そしてすでに人権問題の当事者なのです。
誰もが個人として尊重される権利をもち、人間は皆、平等である…、その当たり前のことを認め合えるようになることが大切なのです。
自分のことも相手のことも大切にするその「心」こそ、人権の始まりです。それぞれに〈個性をいかしながら生きていける社会〉こそ、『人権』が守られた豊かで幸せな社会といえます。
岐阜市女性センター所長 寺松 みどり
※参考:「守ろう人権 住みよい岐阜市」№128
岐阜市人権啓発センター2015年 「排除と差別の社会学」好井裕明 編 有斐閣選書 2009年
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